2019年9月7日土曜日

上平主税さんの碑

 みなさま、いつもご覧いただきありがとうございます。

 かつて新島は、罪人が流刑となってこの地に送られた歴史があります。その流刑となった人の中には、知識人や技能を持った人もいて、新島に流された後、島民のために力を尽くしてきました。きょうは、その中の一人、
上平主税(かみだいらちから)氏をご紹介します。

 氏は、南大和の野尻村(現在の奈良県十津川村野尻)の生まれで、紀州の松岡梅軒に医術を学び、27歳の時には天然痘予防に関する医術書を出版するなど、西洋医学に関心を寄せていました。このような時代背景の中、十津川郷でも尊王攘夷運動が盛り上がってきて、上平主税は十津川郷士(地元の武士)の指導者として表舞台に立つことになります。

 しかし、明治三年(1870)新政府参議の横井小楠の暗殺に関わったとして、四十七歳のときその罪で新島に流されました。その頃、島で天然痘が大流行して多くの死者が出ていました。氏は惨状を見かねて「種痘自訴状」を当時の新島の行政管轄であった足柄県(現神奈川県)に提出し、人命救済に尽力しました。また、島民に産婆術を教え、寺子屋を開いて子弟の教育にも貢献し、赦免後もしばらく島にとどまり島民のために尽くしました。

 のちに故郷の十津川村に戻り玉置神社の神官となったそうです。そして、明治二十四年(1881)、六十八年の生涯を閉じました。
 
 写真は、新島で流罪になりがらも、その知識や技能を島民のために尽くした人たちの記念碑です。写真右手前が 上平主税の碑で、そこには氏の遺作の和歌が記されています。

 大御世の 恵みにもれぬ 民なれば あしきをよきに かえせ罪人(つみびと)

 

 この新島が遙か奈良県の十津川村とご縁があるとは驚きです。また、玉置神社の神官となったそうですが、玉置神社って皆さんご存知ですか。調べてみるとかなり秘境の神社、神のご加護がないとたどり着けないようなところみたいです。
 罪は背負っても、流罪にすることにより、その人のもっている能力を活かし、多くの人のために尽くすことで、「あしきを よきに」できたのでしょうね。

 記念碑に 歴史を知れば 絆なり 奈良の十津川 伊豆の新島






2 件のコメント:

  1. やまなみさん、こんにちは。
    150年以上前に、上平主税さんと言う方がいらして、奈良の十津川から新島に渡って、また十津川に戻られたのですね。島は様々な人、文化に触れながら発展してきたのですね。今でもその方の碑が大切に手入れされていて、島の方の優しさ、純粋な心を感じます✨
    今日も素敵なお話、ありがとうございます。

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  2. yuukiさん、コメントありがとうございます。新島にある記念碑を調べてみると、流刑制度をとおして日本各地とつながりがあることが分かります。写真の左奥は、天宥法印(てんゆう ほういん)という方の碑で、現在も山形県鶴岡市羽黒地区と交流があるんですよ。また、いつかご紹介しますね。そうそう、猫ちゃんも、新しくお友達になりましたので、こちらは次回ご紹介します。

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